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人類は何度も宇宙へ旅立った。そして星々に住む異星人は、奇妙な着ぐるみを着た人間にそっくりだった。あるいは、少し化粧をしてラテックスを貼った人間に。あるいは、そのままの、ベージュ色の肌をした白人に。
『宇宙大作戦』「怪獣ゴーンとの対決」、© CBS Corporation
人間の姿が宇宙の自然な基準で、ほかのすべての異星種族は、そこを少し変えてできているとは、実に驚くべきことだ。
この興味深い現象は、どう説明できるだろう。もちろん、収斂進化だ! 千もの異星の惑星で、地球の生命とは完全に独立して進化したのに、どれも同じになったのだ。
哺乳類であるカンガルーは、霊長類であるチンパンジーほどには私たちに似ていない。カエルはカンガルーより似ていない。両生類も私たちと同じ四肢動物なのに。だが、そんな事実に惑わされてはいけない。カエルよりさらに昔に私たちと枝分かれした昆虫の、目がくらむような多様性にも惑わされるな。昆虫には脚が六本あり、骨格が外側にあり、視覚の仕組みも、性行動も、かなり違うことに惑わされるな。
本当に異星の種族なら、人間と昆虫の違い以上に、私たちとは違うはずだと思うかもしれない。だが言ったように、惑わされてはいけない。異星の種族が知能を進化させるには、それぞれに膝が一つある二本の脚を、直立した胴体につけ、私たちと似た歩き方をする必要がある。いいか、どんな知能にも手が必要なのだから、一対の脚を転用しなければならない。そして四本脚の生物から始めなければ、走る歩様と直立歩行を発達させ、手を自由にできないのだ。
……あるいは、別の理論として、奇妙な着ぐるみを着た人間を使うのが手っ取り早い逃げ道だからだ、と考えるべきかもしれない。
だが本当の問題は、形ではない。心だ。「奇妙な着ぐるみを着た人間」はSF小説のファンにはおなじみの言葉だが、四肢があって直立歩行するものを指すのではない。純粋な結晶でできた角張った生き物でも、考え方が驚くほど人間に似ていれば、奇妙な着ぐるみを着た人間だ。特に、20世紀末から21世紀初頭の英語圏の人間に似ているなら。
私は大昔の映画をあまり見ない。数年前、1960年の映画『サイコ』を見たとき、画面の中のアメリカ人と、自分が知るアメリカとの文化的な隔たりに驚いた。ボタンを留めたシャツを着た『サイコ』の登場人物は、テレビや映画で見るいわゆる「異星人」の大半より、よほど異質だ。
自分の文化にそっくりではない文化を書くには、自分の文化を、ほかの文化がすべて出発点にすべき標準としてではなく、特殊な一例として見なければならない。歴史を学ぶのは助けになるだろう。だがそれも、小さな白い紙に並ぶ小さな黒い文字であって、生きた経験ではない。中国やドバイ、あるいはクン(!Kung)の人々の中で一年暮らせば、もっと助けになる気がする。忙しくて、私はそうしたことがない。ときどき、自分には何が見えていないのだろうと思う。よそのことではなく、ここのことが。
自分の人間性を特殊な一例と見るのは、それよりはるかに難しい。
知られているどの文化でも、人間は喜び、悲しみ、恐怖、嫌悪、怒り、驚きを経験するようだ。そしてどの文化でも、これらの感情を同じ表情で示す。次に「異星人」を見たら――「AI」でもよいが――怒ったときには、きっと人間に普遍的な怒りの表情を見せるだろう。そして、そいつは怒るはずだ。
私たちは、頭蓋骨の下ではよく似ている。有性生殖する種であることに伴う性質だ。みんなが違う複雑な適応を使っていたら、組み合わせられなくなる。(異星人は、人間や多くの昆虫と同じように有性生殖するのか? 細菌のように遺伝物質の小片を交換するのか? 菌類のように群体を作るのか? 心理的な一様性の原則は、彼らの間にも成り立つのか?)
祖先が単に飼い慣らしたり網で捕らえたりするのではなく、複雑に操る必要があった知能、詳しくモデル化する必要があった心は、自分たちとほぼ同じように動く心だけだった。だから私たちは、相手の立場に自分を置き、その状況なら自分はどうするかと問うことで、他者の心を予測するよう進化した。予測されるものが、予測するものに似ていたからだ。
「何ですって?」とあなたは言う。「他人は自分と同じだなんて思っていません。私が悲しくても、相手は怒っているかもしれない。信じていることも性格も違います!」こう考えてみよう。人間の脳は、極端に複雑な物理系だ。あなたはそれを、ニューロン一つずつ、原子一つずつモデル化しているわけではない。人間の脳と同じくらい複雑で、しかも自分には似ていない物理系に出会ったら、解明には科学者の何人分もの一生が要るだろう。あなたは、人間の脳の仕組みを抽象的・一般的な意味で理解していない。脳を作れないし、自分自身と同じくらいうまく他人の脳を予測するコンピュータモデルすら作れない。
他人の脳ほど物理的に複雑で、理解されていないものを、そもそも把握しようとできる唯一の理由は、自分の脳をそれに似せて動かすことにある。気持ちをなぞるのだ。好意や同情を持つとは限らないが。相手の怒りの影と、信念の影を、自分の脳に重ねる。「この状況で自分ならどうする?」と言葉で考えることは、一度もないかもしれない。それでも、自分の中に持つ他人の心の小さな影は、自分の脳内で動いているものだ。相手の中にもある同じ複雑な機構を呼び起こし、自分が理解していない歯車を同期させている。自分は怒っていなくても、もし自分があなたに怒り、自分があなたを不信心なクズだと信じていたら、自分はあなたを傷つけようとするだろう、とわかる……。
この「共感的推論」とでも呼ぶものは、人間については、おおむねうまく働く。
だが、異なる感情を持つ心ならどうだろう。自分が感じたことのない感情を感じたり、自分なら感じる感情を感じなかったりする心は? それは、自分の脳を相手の脳の立場に置いても把握できない。空間が三次元ではなく四次元の宇宙で育った異星人を想像してほしい、と言うことはできる。だが、その異星人のように見えるよう、あなたの視覚野を組み替えることはできない。異なる感情を持つ異星人の物語を書くことは試みられる。しかし、その感情をあなたは感じられないし、私にも感じられない。
マルクス兄弟の映像を見る異星人を想像しよう。ユーモアの感覚に少しでも似たものを考えたことすらないので、何が起きているかも、なぜそんな感覚体験をわざわざ求めるのかも、まるでわからない。楽しみを逃していると哀れむことはない。あなたは一度もアントル(antled)したことがないのだから。
こう尋ねるかもしれない。異星人にもユーモアの感覚はあるが、話した冗談が十分面白くないだけでは? これは、外国で英語を大声で、ゆっくり話せばよいとするのと、ほぼ同じだ。筋の通った英語を妨げる何か奇妙な障壁を、大声で乗り越えさえすれば、言葉に内在し、言葉から滴る意味を聞き取れる幽霊が、外国人の中にもいるはずだ、という理屈で。
笑いは、普遍化できなくても、可能なあらゆる心が持つものでなくても、美しく、価値あるものでありうる。そのことを理解するのが大切だ。それは、明日への贈り物の中の、私たちに固有の部分になるだろう。それにも価値はある。
そうでなければ困る。普遍化可能性は、私には救い出せないメタ倫理学の概念だからだ。人間の間なら、あるかもしれない。だが、可能なあらゆる心の間では、ない。
では、自分とは違う感情の仕組みで動く心、感情に相当するものを持たない心ならどうだろう? いや、複雑な機械を作れるほど強力な知性には、必ず感情に似た状態があるはずだと説明する必要はない。自然選択は、自分では感情を持たずに複雑な機械を作る。これこそ本物の異質な存在だ。本当にあなたとは違う仕組みで働く、最適化過程なのだ。
1960年代以降の生物学の進歩の多くは、進化を擬人化するのをやめさせようとする試みから成ってきた。学界では大きな争いになった。明瞭な数学に裏打ちされた、圧倒的な実験的証拠がなければ、正気が勝ったかどうか、私にはわからない。人々に、異質な存在の立場へ自分を置くのをやめてもらうのは、長く困難な、上り坂の苦闘だ。AIについて、私は何年もこの戦いを続けてきた。
擬人化の傾向は、私たちの深くに根ざしている。「さあ、今から人間のように考えるのをやめよう!」と決意するだけで、切り取れるものではない。人間であることは、呼吸する空気であり、私たちにとっての標準であり、絵を描き始める白い紙だ。そして、人間らしくしているとき、自分が人間らしくしているとは考えない。
SF小説では、作家の真の試金石は、本物の異星人を書けるかどうかだとよく言われる。(独自の謎めいた理由で、筋書きに必要なことを何でもする、都合よく理解不能な異星人ではない。)ジャック・ヴァンスは、この技の大いなる達人の一人だった。ヴァンスの人間は、文化が違えば、大半の「異星人」より異質だ。(ヴァンスを読んだことがないなら、『チャシュの都(City of the Chasch)』から始めるとよい。)ニーヴンとパーネルの『神の目の小さな塵』も、ここでよく挙がる作品だ。
逆の例としては、あるSF作家――オースン・スコット・カードだったと思う――が、テレビSF史上最低の瞬間について書いていた。『スター・トレック』のある回で、並行進化がそこまで進み、人間と同じ姿をし、英語を話すだけでなく、アメリカ合衆国憲法の前文まで、独立に一字一句同じに書き直した異星人が出てくるのだ。
これが、想像力の大いなる失敗だ。SFだけの話だと思ってはいけない。AIだけの話ですらない。異質なものを想像できないことは、自分自身が見えないこと、自分の特殊性を理解できないことなのだ。人間という背景に溶け込んだ人間を、誰が見つけられるだろう?