非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

スーパーヒーロー・バイアス

Superhero Bias

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重武装した反社会的な誘拐犯が、人質を取って立てこもり、交渉の要請をすべて拒んで、これから殺し始めると宣言したとしよう。現実では、悪者が人質を取っているとき、正義の側がドアを蹴破ることは普通はない。だが、ときには――ごくまれにだが、ときには――本当に正義の側にいる人々がドアを打ち破らねばならなくなるほどに、現実がハリウッド映画をまねることもある。

かけ離れた二つの現実で、それぞれ一人の英雄が、悪者に最初に立ち向かうため部屋へ突入するところを想像してほしい。

一方の現実では、その英雄は車を投げ飛ばせるほど強く、鼻の穴からエネルギー弾を放てて、X線の聴覚を持つ。その皮膚は弾丸をはじくどころか、触れた瞬間に消滅させてしまう。悪者は小学校に立てこもり、200人を超える子供を人質に取っている。外では親たちが泣きながら待っている。

もう一方の現実では、その英雄はニューヨークの警察官で、人質は悪者が路上から連れてきた三人の売春婦だ。

次の問いを、よくよく考えてほしい。より偉大な英雄はどちらだろう。そして、どちらのほうが、自分が主人公のコミックを描いてもらえそうだろう。

ハロー効果とは、好ましい特徴の評価がすべて互いに相関することだ。魅力の尺度で高く評価される人物像は、才能、親切さ、正直さ、知性の尺度でも高く評価される。

だから、強くて傷つかないように見えるコミックの登場人物は、どちらも好ましい特徴であるがゆえに、勇気や英雄性といった英雄の資質まで、より多く備えているように見える。だが――。

ほとんど何をされても傷つかないなら、いかにも勇敢で度胸があるように振る舞うのが、どれだけ大変だっていうんだ?

次の指摘をどこかで読んだのか、それとも自分で仮説を立てたのかは覚えていない。とりわけ名声は、他のあらゆる人格的特徴に足し合わされるように見える。ガンディーについて考えてみよう。ガンディーは20世紀で最も利他的な人だったのか、それとも単に最も有名な利他主義者だったのか。ガンディーは、暴動鎮圧用の警棒を持つ警官や、銃を持つ兵士と対峙した。だがガンディーは著名人であり、その著名さに守られていた。では、行進に参加した他の人々はどうだろう。病院送りにされても、撃ち殺されても、国際的なニュースの見出しにはならないのに、警棒や銃に立ち向かった人々は?

一緒に行進する誰よりも小さな危険しか冒していないのに、見出しを飾り、著名人となり、名声を得て、歴史に名を残し、非暴力抵抗の象徴的な模範になることを、ガンディーはどう思ったのだろう。そうした無名の英雄の一人が目を輝かせて近づいてきて、あなたはすばらしい人だと話しかけたとき、どんな気持ちだったのだろう。ガンディーは、自分の世界をこんなふうに捉えてみたことがあるのだろうか。私にはわからない。私はガンディーではない。

これは、いかなる意味でもガンディーへの批判ではない。非暴力抵抗の目的は、自分の勇気を見せびらかすことではない。それなら、樽に入ってナイアガラの滝を下るほうが、ずっと手っ取り早い。ガンディーには、自分の著名さによって、完全ではないにせよある程度守られてしまうことはどうしようもなかった。そしてガンディーの行動にも勇気は必要だった。無名のまま行進するほどの勇気ではないが、それでも大きな勇気が必要だった。

私が指摘したいバイアスは、ガンディーの名声の点数が、彼が正当に積み上げてきた利他性の点数に、認識の中で加算されてしまうように見えることだ。非暴力について考えると、あなたはガンディーを思い浮かべる。ガンディーの行進の一つに加わり、警棒や銃に立ち向かい、殴られて病院に運ばれ、その後一生、足を引きずって歩くことになり、しかも名前を誰にも覚えてもらえなかった無名の抗議参加者の女性ではない。

同じように、自分の命を危険にさらして200人の子供を救うのと、自分の命を危険にさらして三人の大人を救うのでは、どちらがより偉大だろうか。

答えは、より偉大という言葉で何を意味するかによる。200人の子供を救うか、三人の大人を救うか、選ばなければならないなら、前者を選ぼう。「一人の命を救う者は、全世界を救ったにも等しい」は、すてきな拍手の合図にはなるかもしれない。だがどちらかを選ばなければならないときには、ひどい道徳的助言だ。だから、「どちらがより重要か」「どちらの結果が望ましいか」「どちらか一方しかできないなら、どちらを選ぶべきか」という意味で「より偉大」と言うなら、三人より200人を救うほうが偉大だ。

だが、行動から明らかになる美徳という意味で偉大さを問うなら、わずか三人の命を救うためにも自分の命を危険にさらす人のほうが、200人のためなら命を危険にさらすが三人のためにはそうしない人より、大きな勇気を示している。

だからといって、もっと美徳を示したいからと、あえて三人の大人を救うために命を危険にさらし、200人の児童を見殺しにしてよいわけではない。徳のある人間になりたいから命を危険にさらす人が示す美徳は、他人を救いたいから命を危険にさらす人の美徳より、はるかに小さい。より大きな美徳を示せると思って、200人ではなく三人を救う人は、自分の「偉大さ」に利己的に夢中になるあまり、道徳的には過失致死に相当する罪を犯してしまっている。

これは、無為が関わるあの種の状況だ。美徳を示そうとしても、美徳は示せない。個人的な犠牲も不快さも伴わず安全に世界を救う方法と、命を危険にさらし、大きな窮乏に耐える方法の二つから選べるとき、わざわざ後者を選んでも英雄にはなれない。英雄らしく見られたいと願うことに、英雄的なところはない。それは目的を見失うことだろう。

美徳を示そうとするのではなく、本当に人命を救おうとする真に徳のある人は、より少ない労力でより多くの命を救う方法を絶えず探す。その結果、その人の美徳は、より少ししか表に現れなくなる。ややこしくはあっても、矛盾はしていない。

だが、私たちはいつでも、弾丸で傷つかない体になることを選べるわけではない。危険を減らし、救える範囲を広げるために最善を尽くしたあと、それでも残る英雄性は、まぎれもなく、本当に示されたものだ。

超能力も、X線透視力も、怪力も、空を飛ぶ力も、そして何より、弾丸で傷つかない体も持たずに命を懸ける警察官は、スーパーマンよりはるかに大きな美徳を示している。スーパーマンは、ただのスーパーヒーローにすぎないのだから。

Adam Warren, Empowered, vol. 1 (Dark Horse Books, 2007). ↩