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一、二、三はすべて整数であり、マイナス四も整数である。上へ数え続けても、下へ数え続けても、さらに多くの整数に出会うことになる。だが、「正の無限大」や「負の無限大」と呼ばれるものには出会わない。したがって、これらは整数ではない。
正と負の無限大は整数ではなく、整数の振る舞いについて語るための特殊な記号である。「5 + 無限大 = 無限大」のように言う人がいる。5から始めて、決して止まらず上へ数え続ければ、数は限りなく大きくなっていくからだ。しかし、そこから「無限大 − 無限大 = 5」は導かれない。0から決して止まらず上へ数え、それから決して止まらず下へ数え、終わったとき自分が5にいる、ということはできない。
ここから、無限大は整数でないだけでなく、整数のように振る舞いさえしないことがわかる。無限大と整数を分別なく混ぜようとすれば、1、2、3やほかの本物の整数には必要のない、矛盾して見える特殊な新しい振る舞いが、いくつも必要になる。
無限大が整数でなくても、数が足りなくなって途方に暮れる心配はない。人は五頭の羊、何百万粒もの砂、10の24乗個もの原子を見てきたが、何かを無限個数えた人はいない。連続量についても同じである。幅一ミリメートルの塵、幅一メートルの動物、幅数キロメートルの都市、幅数千光年の銀河を測った人はいるが、幅が無限大のものを測った人はいない。現実世界では、それほど大量の無限大は必要ない。
(聴衆の中の、より高度な知識を持つ読者のために断っておくと、たとえば順序数と基数の違いについて、手の込んだ説明を私に書き送る必要はない。そう、私は無限大について、さまざまな高度な集合論上の定義を知っている。だが、確率論におけるよい用途は見いだせない。以下を参照。)
通常の確率表記では、確率は0と1の間にある。硬貨が裏になる確率は0.5かもしれず、天気予報士は明日雨が降る確率を0.9とするかもしれない。
しかし、確率の書き方はこれだけではない。たとえば、変換式O = (P/(1−P))により、確率をオッズへ変換できる。したがって、50%の確率は0.5/0.5、すなわち1のオッズになり、通常は1:1と書く。一方、0.9の確率は0.9/0.1、すなわち9のオッズになり、通常は9:1と書く。オッズを確率へ戻すにはP = (O/(1 + O))を使う。この変換は完全に可逆なので、同型写像、すなわち双方向に可逆な写像である。したがって確率とオッズは同型であり、都合に応じてどちらも使える。
たとえば、ベイズ更新をするときには、オッズのほうが便利である。六面のサイコロを振るとしよう。1以外の面が出た場合には10%の確率でベルが鳴り、1の面が出た場合には20%の確率でベルが鳴る。さて、サイコロを振るとベルが鳴った。出ている面が1であるオッズはいくつだろう? 事前オッズは1:5(実数1/5 = 0.20に対応する)、尤度比は0.2:0.1(実数2に対応する)であり、この二つを掛ければ、事後オッズ2:5(実数2/5、すなわち0.40に対応する)が得られる。望むなら、これを確率へ戻し、(0.4/1.4) = 2/7 = ∼29%を得る。
したがって、ベイズ更新にはオッズのほうが扱いやすい。確率を使うなら、ベイズの定理の複雑な形を持ち出さなければならない。しかし、「六面のサイコロを振ったとき、1から4までの数字が出る確率は?」のような問いに答えるには、確率のほうが便利である。それぞれの面の確率1/6を足して4/6を得られるが、それぞれの面のオッズ比0.2を足して、オッズ比0.8を得ることはできない。
なぜ私はこんな話をしているのか? 「オッズ比」も「確率」と同じく、不確実性を実数へ写す正当な方法だと示すためである。オッズ比のほうが便利な演算もあれば、確率のほうが便利な演算もある。コックスの定理と呼ばれる有名な証明(ならびにそのさまざまな拡張と精緻化)は、もっともらしい制約のいくつかに従う不確実性の表現方法は、どれも結局、互いに同型になることを示す。
オッズ比が確率と同じく正当であることが、なぜ重要なのか? 通常の書き方では、確率は0と1の間にあり、0と1はどちらも簡単に到達できる量に見える――一頭のシマウマや、ゼロ頭のユニコーンなら容易に想像できる。しかし、確率をオッズ比へ変換すると、0は0へ行く一方、1は正の無限大へ行く。これで、絶対的真理はそれほど簡単に到達できそうには見えなくなる。
ベイズ更新をさらに簡単にする表現は、対数オッズである。E・T・ジェインズは、このように確率を考えることを勧めた。たとえば、ある命題の事前確率が0.0001だとしよう。これは約−40デシベルの対数オッズに対応する。次に、その命題が偽の場合より真の場合に百倍生じやすいと思われる証拠を目にする。これは20デシベル分の証拠である。したがって事後オッズは、約−40 dB + 20 dB = −20 dB、すなわち事後確率は∼0.01となる。
確率を対数オッズへ変換すると、0は負の無限大へ、1は正の無限大へ写る。これで、無限の確実性と無限のありそうになさは、どちらも少しばかり手の届かないものに見える。
確率では、0.9999と0.99999の差はわずか0.00009に見える。そのため、0.502から0.503までのほうが、0.9999から0.99999までより、はるかに遠い。確率0.99999から確率1へ行くには、たった0.00001の距離を進めばよいように見える。
しかしオッズ比へ変換すると、0.502と0.503は1.008と1.012になり、0.9999と0.99999は9,999と99,999になる。そして対数オッズへ変換すると、0.502と0.503は0.03デシベルと0.05デシベルになる一方、0.9999と0.99999は40デシベルと50デシベルになる。
対数オッズを使うと、不確実性の二つの度合いの間の距離は、一方から他方へ移るために必要な証拠の量に等しくなる。すなわち、対数オッズは確信の各度合いの間隔について、自然な尺度を与えてくれる。
対数オッズを使えば、無限の確実性へ到達するには無限に強い証拠が必要であることが露わになる。それは、無限に不合理なことを信じるには無限に強い反証拠が必要なのと同じだ。
さらに、確率論のさまざまな標準定理には、1や0を代入しようとすると特殊な場合が生じる。たとえば、確率0を割り当てた観察についてベイズ更新を試みた場合に起きることがそうである。
そこで私は、1と0は確率の中にはない、と言うのが理にかなうと提案する。体の公理に従わない負と正の無限大が、実数の中にはないのと同じである。
これが確率論者を困らせる主な理由は、同時確率を周辺化するとき、すべての部分を足し合わせれば合計が1になると仮定して、以前に得た定理を導き直す必要が出てくるからである。
しかし現実世界でサイコロを振っても、1から6までのどれかの数字が出ることが、文字どおり無限に確実なわけではない。サイコロは縁で立つかもしれないし、隕石に衝突されるかもしれない。「マトリックスの暗黒卿」が手を伸ばし、一つの面に「37」と書くかもしれない。
「私が検討していないすべての可能性」を表す魔法の記号を作れば、この魔法の記号を含む事象を周辺化し、無限の確実性を表す魔法の記号「T 」に到達できるだろう。
だが私は、特殊な振る舞いをする魔法の記号を使わずに定理を導く方法がないかを問いたい。そのほうがエレガントである。排中律や無限集合を信じることを拒む数学者がいるように、私は絶対的確実性を信じない確率論者になりたい。