非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

そもそもバイアスとは何か

… What’s a Bias, Again?

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バイアスとは、真実を得るという目標を妨げる、ある種の障害である。(「障害」であるのは、真実を目指しているからだ。)ただし、障害なら何でも「バイアス」というわけではない。

いきなり「バイアスとは何か?」と問うのでは、順序が逆だ。ことわざにも、「狂気には四十通りあるが、分別には一通りしかない」とある。真実という的は小さい。ありうる状態の空間の中で、ほんの狭い領域を射抜かなければならない。「あの人は私を好きか、好きでないか」なら二択かもしれないが、E = mc2は、あらゆる方程式の空間に浮かぶ小さな一点だ。すべての宝くじの中の当たりくじのように。間違うのは例外的なことではない。むしろ成功することのほうが、あらかじめ見積もればありそうもないので、なぜ成功したのか説明を要するのだ。

バイアスは悪くて邪悪で、とにかくあってはならないものだから、「バイアスを減らす」という道徳的義務から出発しよう、という話ではない。周りの雰囲気に染まるうちに「合理的であれ」という義務論的な義務を身につけると、そういう考えに行き着きかねない。すると人は、なぜそうするのかを理解せずに技法だけを実行しようとする。(それは悪くて邪悪で、とにかくやってはいけないことだと、子どものころに読んだ『ご冗談でしょう、ファインマンさん』には書いてあった。)

出発点はむしろ、理由は何であれ真実にたどり着きたいという願いであり、その目標への道をさまざまな障害がふさいでいるという発見だ。障害は、どれもまったく別物というわけではない。たとえば、使える計算能力が足りないことに関わる障害もあれば、情報を得る費用が高いことに関わる障害もある。そして、障害の大きな一群には、ある共通の性質があるように見える。真実への障害を並べた空間の一角に、集まりを作っているのだ。その集まりにつけられた名前が、「バイアス」である。

バイアスとは何か? 経験的に見つかったこの集まりを調べれば、何がそこに属するかを簡潔に判定する方法が見つかるだろうか? もしかすると、実例をいくつか指し示して、あとは聞き手にわかってもらうほかに、うまい説明はできないかもしれない。火を研究し始めたばかりの科学者なら、「火とは、フロギストンを放出する物質の錬金術的な変成だと定義する」と言うより、たき火を指して「火とは、あそこにあるオレンジ色に明るく光る熱いものだ」と言うほうが、ずっと賢明かもしれない。定義できないからといって、そのものを無視してはいけない。私は一般相対性理論の方程式を暗唱できないが、それでも崖から一歩踏み出せば落ちる。バイアスも同じだ。「バイアス」とは何かを簡潔に定義できないとわかっても、その打撃が軽くなるわけではない。だから、連言錯誤、自信過剰、利用可能性ヒューリスティックや代表性ヒューリスティック、基準率の無視を指して、「こういうものだ」と言ってもよい。

以上を踏まえると、私たちが「バイアス」と呼んでいるのは、情報の費用や計算能力の限界ではなく、私たち自身の心の仕組みの形から生じる、真実への障害のようだ。その仕組みは、正確に認識することに真っ向から反する目的に、進化によって最適化されているのかもしれない。たとえば、進化上の適応に関わる政治的な場面で、論争に勝つための仕組みだ。あるいは、選択圧が認識の正確さとはずれた方向に働いたのかもしれない。社会でうまくやっていくために、周りの人と同じことを信じる、といった具合に。また、ヒューリスティックとバイアスの典型的な例では、特定できるアルゴリズムによって仕組みが動いている。それは役に立つ仕事をする一方で、系統的な誤りも生む。利用可能性ヒューリスティック自体はバイアスではないが、特定して簡潔に記述できるバイアスを生み出す。脳が何かを間違えていて、数多くの実験や、考え抜く作業を経て、誰かがその問題をシステム2にも理解できる形で突き止める。そうして私たちは、それを「バイアス」と呼ぶ。知ったところでうまく対処できないとしても、特定の種類の認知の仕組みから、特定できる形で生じる失敗であることに変わりはない。仕組みが足りないためではなく、その形のために生じるのだ。

「バイアス」は、取り入れた信念や道徳的義務など、認知の内容から生じる誤りとは区別される。そちらは「バイアス」ではなく「間違い」と呼ぶ。自分で気づきさえすれば、ずっと直しやすい。(ただし、その間違いの原因や、その原因のさらに原因をたどれば、何らかのバイアスに行き着くかもしれない。)

「バイアス」は、個人の脳の損傷や、身につけた文化的な慣習から生じる誤りとも区別される。バイアスが生じるのは、人間に普遍的な仕組みからだ。

プラトンが一般相対性理論を知らなかったのは、「バイアス」のせいではない。その情報を得る方法がなかったのであり、無知の原因は彼の心の仕組みの形ではなかった。だが、もしプラトンが、自分が哲学者だから哲学者のほうがよい王になると信じていたなら、そしてその信念が、父親から「誰もが自分の職業の人間を統治者に押し上げる道徳的義務を持つ」と教わったためでも、子どものころ接着剤を吸いすぎたためでもなく、自分を売り込むという、人間に普遍的で適応的な政治的本能から生じたものだったなら、それはバイアスだ。プラトンがそれを指摘されたことがあるかどうかは関係ない。

バイアスを直すには、大きな手間がかかるかもしれない。そもそも直せないかもしれない。だが、自分の心の仕組みを見て、ある特定できる種類の誤りが生じる因果関係を説明できるとする。そして、問題の原因が、仕組みの不足や個別の不適切な内容ではなく、進化によってできたその仕組みの形にあると見えるなら、私たちはそれをバイアスと呼ぶ。

私自身は、私たちの探究を、合理性の技能を一人ひとりが身につけ、真実を見つける技法を磨くことだと考えている。課題は、失敗を避けるという消極的な目標ではなく、真実に到達するという積極的な目標を果たすことだ。失敗の空間は広い。無限の種類の誤りが、無限にある。それほど巨大な空間を記述するのは難しい。「一つのリンゴについて成り立つことが、別のリンゴについても成り立つとは限らない。だから、世界のすべてのリンゴについてよりも、一つのリンゴについてのほうが、多くを語れる」。成功の空間はもっと狭い。だから、より多くのことを語れる。

見てのとおり、私は定義を論じるのが嫌いなわけではない。だが、それが第一の目標ではないことは忘れないでおこう。私たちがここで取り組むのは、真実を求める、人間の大いなる探究だ。知識が切実に必要であり、それに、知りたいからでもある。そのために、行く手をふさぐものは何であれ、乗り越えるよう努めよう。それを「バイアス」と呼ぶかどうかにかかわらず。