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私はいつでも確率を使うべきだと主張しているわけではない。そう聞いて驚く読者もいるかもしれない。
もっと正確に言えば、問題を解こうとする人間が、言葉にした確率をでっち上げ、その場で作った数字に確率論や意思決定理論の法則を適用し、その結果を最終的な信念や判断にすべきだと、いつも勧めているわけではない。
確率の法則は法則であって、提案ではない。だが、真の法則を計算するのは、私たち人間には難しすぎることが多い。P ≠ NPで、宇宙に指数的な計算能力の供給源がないなら、超知能にさえ計算しきれない、証拠による更新がある。計算する余裕さえあれば、その確率はきちんと定義できるとしてもだ。
だから、ときには確率論を適用しない。特に人間ならそうだ。あなたの脳には、不確実な推論のための、言葉による確率の割り当てを伴わない、さまざまな便利なアルゴリズムが進化してきている。
飛んでいるボールがどこに落ちるかわからない? 落下地点の確率分布を立て、ボールをちらりと見るたびに意識的なベイズ更新を行い、筋肉へのありうる運動指令の列すべてについて期待効用を計算する、という方法は勧めない。飛んでくるボールを捕るには、熟考した言語的推論で確率を作ったり操作したりするより、脳に備わる仕組みに任せるほうが、おそらくうまくいく。
だがそれは、確率論の外へ出たり、確率論を超越したりしているという意味ではない。
ダッチブックの議論は、それでも当てはまる。私が賭けの選択肢を示したとしよう。この区画にボールが落ちれば1万ドルもらえる賭けと、サイコロを振って6が出れば1万ドルもらえる賭けだ。あなたの答えに、一貫した確率を割り当てられないなら、確実に損をする賭けの組み合わせを受け入れたり、確実に得をする賭けを拒んだりすることになる……。
それでも、熟考した言語的推論を使うべきだということにはならない。少なくともプロの野球選手には、一貫した確率を割り当てるより、ボールを捕るほうが重要だろう。実際、確率を作ろうとしても、その言葉にした確率は、直感的な感覚——心の奥の、言葉にならない不確実さの表現——より、よいものにさえならないかもしれない。
言葉で表された不確実さに、特別な地位はない。脳の言語を扱う部分が、その問題で実際にうまく働く場合でなければ。
そして、同じ土地の正確な地図は必ず互いに整合するが、整合する地図がすべて正確とは限らない。一貫するより正確であることのほうが重要で、一貫するよりボールを捕るほうが重要だ。
実際、私は一般に、ある程度まともな根拠がありそうでなければ、確率をでっち上げるのは勧めない。それでは、実際以上に自分がベイズ的だと思い込むだけだ。
具体的には、たいていの場合、数値を用いない手順から、数値の確率らしく見えるものを作ることには反対だ。数は数から出すべきである。
もちろん、直感的な不確実さを、言葉にした確率へ変換してみることには、利点もある。連言の誤謬のような問題に気づけるかもしれない。内部の不整合に気づけるかもしれない。もっとも、その直し方までわかるとは限らないが。
だが、直感を「1000分の1」と言葉にしたからといって、その言葉を発するときには、対応する出来事が1000回に1回ほど起きるのだ、と考えてはいけない。あなたの脳は、それほどよく較正されていない。その代わり、直感的な不確実さを言葉にせず何かをするほうが、うまくいくかもしれない。少なくとも、その直感を、本来の使い方で使っているのだから。
最近、この問題が、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)と、地球規模の破局的リスクに関する会議で提示された議論をめぐって話題になった。
LHCが世界を破壊することはありえないと多角的に示した論文にも、間違いがないとは確信できない。さらに、論文で使った理論自体が間違っているかもしれない。どちらの場合も、LHCが世界を破壊する可能性がなおある。したがって、稼働させるべきではない、という議論だ。
議論がこの形だけで提示されていたなら、私はその認識論には反対しなかっただろう。
だが発表者は実際には、LHCの論文の理論、モデル、または計算が間違っている確率は少なくとも1000分の1、そして理論、モデル、または計算が間違っていた場合、LHCが世界を破壊する確率も少なくとも1000分の1、と割り当ててみせたのだ。
結局、将来の世代がその論文の理論やモデルを退けたり、ただ間違いを見つけたりすることは、それほどありそうにないわけではないだろう。そして、論文が間違っているなら、結果として何が起きるか、誰にわかるのか?
それは確かに議論だ。だが、それに数字を割り当てるというのか?
どこからともなく取り出した数字に、権威があるかのように見せることに、私は反対する。一般に、不確実さの感覚を確率的な道具で形づくれないなら、「確率」と呼んで格上げすべきではないと思う。
この場合に私が提案したい別の方法は、安全だという議論に絶対の確信をもてないからといって、物理実験を禁止する一般則を議論することだ。
こういう言い方をすれば、出来事の頻度を考えることで、心は判断の帰結をもっと多く取り込み、関連する歴史的事例をもっと思い出すだろう、と私は考える。
LHCという一例だけを論じ、具体的な確率を割り当てることは、(1)ひどく頼りない推論に不当な権威の装いを与え、(2)似た規則を適用した場合の一般的な帰結を隠し、さらに(3)誰かが確率を下げる新しい物理論文を発表すれば、判断が変わるかもしれないという錯覚まで生み出す。
会議の著者たちは、LHCについてもう少し分析すれば、その後は稼働できる、と示唆しているようだった。私はここが、議論のもっとも不誠実な部分だと感じた。「分析が間違っているかもしれず、そうなったら何が起きるかわからない」という議論を認めたら、それを取り除ける物理論文は、どんなものもありえない。
それ以前にほかにどんな物理論文が発表されていても、著者たちは会議で同じ議論を使い、同じ数値の確率をでっち上げただろう。もちろん、この発言に確信はもてないが、その確率は75%だ。
一般に合理主義者は、自分の心を、達成可能な最高の性能で働かせようとする。そのために、言葉で表す確率について話すこともあれば、そうでないこともある。だが、確率論の法則は、いつでも支配している。
もっているのが直感的な不確実さの感覚だけなら、それを使うアルゴリズムに任せるほうが、おそらくよい。生まれつき備わるアルゴリズムのほうが、ぎこちなく言葉にしようとする試みより、うまく働くかもしれないからだ。
もっとも、このように考えると、自分が一貫していないとわかるかもしれない。たとえば、私はLHCの稼働よりも、100万分の1というきちんと定義された確率で世界を破壊する抽選装置のほうを、かなり強く警戒する。
一方、「LHCは世界を破壊しない」と同じくらいの根拠の強さをもつ発言を100万個行い、平均して間違いが1個ほどで済むかと聞かれたら、いいえと答えなければならない。
この不整合をどうすべきだろう。よくわからない。だが、魔法の杖を振って消すつもりは、もちろんない。それでは、手持ちの二枚の地図に不整合を見つけ、整合させるために慌てて書き直すようなものだ。
ちなみに、ユダヤ・キリスト教の神が存在する場合に世界を破壊する装置よりも、10億分の1の確率で世界を破壊する抽選装置のほうを、私はかなり心配する。それでも、「神は存在しない」と同じくらい誤りの危険を伴う、完全に独立した発言を、一つまた一つと10億個行って、平均して間違いが1個ほどで済むとは思わない。
この認識上の状態に満足しているとは言えない。だが、単に自分の中の整合性を高めるのでなく、正確さと現実での有効性を高める方向へ進むとわかるまでは、変えるつもりはない。結局、目標は勝つことだ。確率的な道具で形づくられない確率、数値的な方法で作られない数字をでっち上げれば、もともとの不確実さの扱い方ならもっとよく推論できる内蔵アルゴリズムを、邪魔しているだけかもしれない。
もちろん、これは、十分な根拠をもつ確率を無視してよいという許可ではない。数値的な根拠が少しでもあれば、曖昧な不確実さの感覚よりよい可能性は高い。人間は統計が苦手だ。だが、数字をまったくでたらめにひねり出すこと、つまり数値を使わない手順で数字を作ることには、ほぼ何の根拠もない。その場合は、曖昧な不確実さの感覚に任せたほうが、おそらくよいのだ。
だから私の文章では一般に、「40%」「70%」「95%」のようなでっち上げた数値の確率を割り当てず、「かもしれない」「おそらく」「きっと」といった言葉を使う。数字を並べたら、どれほどばかげて見えるか考えてみてほしい。私は、実際にばかげたことになると思う。それによって、かえってうまくいかなくなると思う。
私は、ダッチブックにつけ込まれないよう、確率をでっち上げるべきだと言う、藁人形のベイズ主義者ではない。私が言うのは、現実の人間は、それを避けるだけの能力がないからダッチブックにつけ込まれるのであり、そのうえ、ダッチブックを避けるよりボールを捕るほうが重要だ、ということだ。数学は、根底にある物理学のようなものだ。逃れようもなく支配しているが、計算するには高くつきすぎる。
また、数学の表面的な形をまねるだけで、体系的によりよい意思決定を生み出さない認知の儀式にも、意味はない。それは目的を見失った状態だ。法則の下で生きる、本当の技ではない。